もっと楽に生きられるはずだ。
コンです。
様々な世界を見れば、自分がしてきた生き方がどれほど窮屈だったのかわかるはず。だった。いや、わかってたし、わかってしまった。問題はその生き方を変える方法を知らないことだ。
列に並んでいて、ガンガンぶつかられることに慣れてしまって、いつもより随分楽だなと思う。いちいち腹立てたりしなくていいから。他人を許せば自分も許せるのかと問うたらそうでもないけれど、少なくとも腹を立てた自分を許す作業は必要なくなるのだ。
少しずつでもいいから、自分を許していく作業が必要だよ。
昔、親戚の叔母さんが言ってた。彼女もまた、心を病んでしまって、随分長い付き合いみたいだ。体だって心だって、多少悪いところがあっても気にしなければいい。辛いところがある自分も許せばいいのだ。多分彼女の言った意図はそうではないのだろうけれど。叔母もまた、戦っているのだな。頭のどこかに、生きているとは悪いところがないという方程式があって、その等式が成り立たないとおかしいという考えがあるんじゃないだろうか。
この、許すという作業は思いの外難しい。こうでないといけない、とか、こうあるべき、とか、一応はあるけど、そんなに許せてないわけじゃない。そう思うと難しい。完璧主義に見えるのだろうか。
確かに、休みを取ってもメールチェックくらいはしないと、とか。資料を訂正してもらって、自分がきちんとしてればこんな手間を掛けさせずに済んだな、とか。そんな風には思う。完璧でありたいという気持ちはある。
でもそれが自分を許していないこととイコールには自分としては結びつかないのだ。だって誤字脱字も乱筆乱文も、許してないとブログなんて書けないよな、と思うから。
それでも確かに、もっと楽な生き方があるだろうな、とは思う。叱られたって、いじめられたって。失敗したって振られたって。また次頑張ればいいや!って切り替えられる方が良い。反省してないと言われても、気にしなければいい。その方がずっと人らしく生きられる気がするのだ。
そうできない人が、心が弱いと言われるんだろう。それが正しい表現かの議論はしても意味がないと思うけれど、自分はそちらの部類に入るだろうな。
1番の問題は何だろうか、と考えるんだけど、よくわからないのだ。他人に気を遣いすぎるところだろうか。それも掘り下げれば自信のなさが原因かもしれない。自信のなさはまた別の何かが原因かもしれない。どうして、どうしてと考えても仕方ないのに。
それだって自分の一部として許してあげられればいい。楽に生きればいい。それが叔母の言いたかったことかもしれない。とにかく彼女が楽しそうに生きていて良かった。そんな風に自分も生きたい。
時差ボケで眠れなくとも。
コン